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首相候補シュタインマイヤー

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2009年 2月20日(金)10時23分12秒
  通報 編集済
   1945年の敗戦から1990年のドイツ再統一までの45年間にドイツ社会民主党(SPD)は4人の党首を持っていました。平均して1人11年強の在職期間ですから、当時のSPDは大変安定した政党であったわけです。ないしは非常に統一的な政党であったのです。他方、1991年から2008年までの間に、SPDの党首は7回も変わっています。そして、2008年10月18日、SPDは臨時党大会を開いて、8人目の党首として、かつての党首ミュンテフェリングを選出しました。つまり最近では平均して2年に1人のペースで党首を替えていることになります。これは、毎年のように党首を交換している日本の自由民主党からすれば、まだ間が空いていますが、1990年までの安定性を基準にすれば、大変な不安定さで、不統一な状態に陥っていることを端的に示していると言えます。普通、こういう不統一状態は、左右両翼の対立と説明します。しかし、南ドイツ新聞によれば、SPDは2枚どころか、トンボ顔負けに4枚の羽を持っているためだ、と説明しています。あるいはカメレオンのように、いろんな色になれる政党になったためだというのです。
 話が先走りました。以前に本欄で、ドイツではメルケル首相の人気のお陰で、その率いる与党キリスト教民主同盟CDU/キリスト教社会同盟CSUが強く、それに対して、それと連立政権を組んでいるSPDでは、ベック(Kurt Beck)党首に人気がないことから低落傾向にあること、そのためかつて同党党首の座にありながら愛妻の看病のため、惜しげもなくその座を捨てたミュンテフェリングの復帰を、同党の支持者は待ち望んでいるという話を書きました。
 ベック党首は、その後、2008年9月はじめに、SPD内部でさえ予期していなかったほど、全く不意打ちに党首の座を投げ出しました。その辺は、ちょっと安倍首相の投げ出しぶりと煮ていますね。そして、その後任選びにすったもんだした末に、ようやく10月中旬になって1ヶ月余に及ぶ党首の空白を埋めることができたわけです。このように長い空白を余儀なくされたのは、同党が一枚岩の政党ではなく、4枚羽の政党だから、というわけです。
 ベックからミュンテフェリングへ党首が変わったことにより、SPDは福祉重視(換言すれば労働者へのばらまき路線)から、再び改革志向へと方向転換したことになります。日本では、目下、与野党ともに、小泉改革を完全に忘れたように、ばらまき政策の競演を行っています。それに対し、SPDは、政権奪回の手段として改革志向に転換したことは、興味のあることです。
 さて、SPDでは、党首にミュンテフェリングを選ぶと同時に、現副首相兼外相のシュタインマイヤーを、2009年9月に行われる予定の連邦議会総選挙における首相候補に宛てる決定をしました。シュタインマイヤーは、ミュンテフェリングと同様、改革派なので、別に党内対立の融和策ということではなく、純粋に総選挙で勝てる候補を選んだ、ということのようです。つまり、彼は大変国民的人気の高い人物なのです。
 このフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー(Frank-Walter Steinmeier)という人は、したがって、近い将来においてドイツの首相となるかもしれないのに、日本ではあまり知られていません。そこで、今回は、彼の人となりを紹介することにします。
 前に、本欄で、現在ドイツの法務大臣を務めているブリギッテ・ツィプリースを紹介しましたが、シュタインマイヤーも、シュレーダー元首相の秘蔵っ子という点で、彼女とよく似た経歴の持ち主です。
 彼は、1956年生まれといいますから、1954年生まれの安倍晋三より2才若く、1961年生まれのバラク・オバマより5最年長ですが、同じゼネレーションといえます。生まれたのはドイツ北部にあって、ドイツ最大の人口を持つ州であるノルトライン=ヴェストファーレン州のデトモルトという町で生まれています。デトモルトについては、西暦7年にトイトブルガーヴァルトの戦いで、3万人のローマ軍団を撃破したゲルマン民族の英雄ヘルマンの記念碑が建っている町として、以前に本欄で紹介したことがあります。ドイツ鉄道ではなく、第3セクターの路線にある、ひなびた、中世風の美しい市街地の残る町です。
 父は木工職人、母は工場労働者といいますから、典型的な労働者階級の子弟です。ドイツは階級意識の強い国ですから、普通であれば、こういう家庭の子供は、国民学校から労働訓練所に進んで労働者になっているところです。それが、大学進学を予定しているギムナジウムに進学したのですから、子供の頃からよほど頭が良かったのでしょう(ドイツでは、労働者になるか、大学に進学するかは小学校5年の時点で決定しなければなりません。)。そのギムナジウム在校中に、すでにSPDのの下部組織である社会主義青年団(Jusos)に参加しており、大学に進む前に兵役を済ませ、それと同時にSPDに入党したというあたりは筋金入りの社会主義者という感じがします。
 1976年に、ドイツ中部、ヘッセン州にあるギーセン大学に入学、1982年に司法試験合格、1986年に司法修習の最後にある2回試験に合格しますが、その後は母校で政治学(公法)の助手として勤務しつつ、博士論文を書いて、1991年に無事法学博士号を取得します。博士号取得と同時に、今度はニーダーザクセン州首相府に勤務するようになります。
 ちなみに、ツィプリースは1952年生まれですから、彼より4歳年長です。彼女も母校はギーセン大学で、1980年に2回試験に合格した後、最初は母校であるギーセン大学事務局で働いていましたから、ここで最初に彼と経歴が重なります。その後、連邦憲法裁判所の調査官を経て、当時ニーダーザクセン州首相であったシュレーダーにスカウトされて、1991年から同州首相府に勤務するようになるのですから、二人は同じ年に同じ職場で働き出したことになります。
 シュタインマイヤーのシュレーダーとの関わりは、その後、急速に濃密なものとなります。1993年に、彼はシュレーダーの個人秘書の一人となり、その翌年には、政策及び出納部門の長となります。さらに、1996年になると、シュレーダーは、彼を同州の首相府長官に任命します。他方、ツィプリースの方は、翌1997年に、ニーダーザクセン州女性・労働・社会省の政務次官に任命されています。
 1998年に、ドイツ連邦議会選挙でSPDが勝利して16年ぶりの政権交代を実現すると、連邦首相となったシュレーダーは、シュタインマイアーとツィプリースの二人を連れてボンに乗り込みます。ツィプリースが連邦内務省政務次官に就任したのに対し、シュタインマイヤーは連邦首相府政務次官に任命されました。
 翌1999年7月に連邦首相府長官のボド・ホンバッハが辞任すると、シュレーダーはシュタインマイアーをその後任に指名しました。この地位で、彼はシュレーダー政権の重要な基本政策を幾つも作り出します。とりわけ重要なのが「アゲンダ2010」です。
 2003年3月にシュレーダーが公表したこの包括的改革案は、社会改革を目指して、失業保険の削減、年金支給開始年齢の吊り上げ、各種福祉サービスにおける自己負担の増大など、国民に大きな負担を強いる内容でしたから、郵政民営化という軽微な改革でさえ政権が大揺れになった日本では到底考えられない過激なものといえます。当然、足下のSPDでも大きな騒ぎになり、社会改革(Sozialumbau)ではなく、社会解体(Sozialabbau)だと非難されたものです。これに対し、シュレーダーは「私は社会国家を解体しようとしているのではない。それを今後も維持していくのに必要な改革を提示しているのだ。これまでのような経済成長が望めない以上、そして少子高齢化が進んでいる以上、こういう痛みなしに社会国家は維持できない。万事、これまでどおりで大丈夫という奴の方がペテン師だ」と主張して戦い、何とか党内をまとめました。この主張、今の日本でもそのまま妥当するように、私は思っています。
 2005年は、日本とドイツで、同時期に改革を争点とする総選挙が行われたことで記憶に残る年です。日本では、郵政改革を叫ぶ小泉自民党が地滑り的大勝利を収めて世界を驚かせました。それに対し、ドイツ国民は、シュレーダー率いるSPDに代えて、アンゲラ・メルケル率いるCDU/CSUを支持したのです。これでシュレーダー改革は挫折することになります。もっとも、CDU/CSUも単独で過半数を超えたわけではなかったので、結局SPDとの大連立ということになりました。
 この大連立政権の人事で、もっとも人々を驚かせたのが、シュタインマイヤーの外務大臣就任です。ツィプリースが2002年以来就いていた法務大臣は、日本とは違って、ドイツでは華々しい脚光を浴びる職です。それに対し、シュタインマイヤーが就いていた首相府長官という地位は、日本でいえば内閣官房長官に相当しますが、いわばシュレーダーの縁の下の力持ちというべきもので、決して目立つ地位ではなかったからでした。
 就任後は地味ながら手堅く外務大臣の職務をこなしており、特に、2007年上半期には欧州連合理事会議長国を務め、暗礁に乗り上げたEU憲法に代わる新条約への道筋をつけたことなどから、その力量に信頼が集まるようになっていきます。
 他方、クルト・ベックは、選挙での敗北を受けてSPDのかつての首脳陣が退陣した後を受けて、2006年からSPD党首になっていました。彼は、あえて入閣せず、閣外からアゲンダ2010で行われた様々な政策を骨抜きにすることに努めました。すなわち、シュレーダー政権下で短縮された失業給付金の給付期間の再延長を求め、大連立与党間で協議した結果、55歳以上(12ヵ月→18ヵ月)と、58歳以上(12ヵ月→24ヵ月)で延長が決定した。また、最低賃金制度についても、建設分野以外の業種でも制定するよう求めました。
 ベックとしては、アゲンダ2010の不人気がSPDの選挙での敗北を招いたと認識していたでしょうから、当然こうすることで彼個人とSPDの人気を高めることができると考えたはずです。ところが意外なことに、SPDの支持率は、これにより20%程度に低迷し、さらにあきれたことには、福祉推進派の党首よりも、改革派シュレーダーの秘蔵っ子であるシュタインマイヤーの方が、国民的人気が高い、という結果になったのです。
 そこで、2007年10月のSPD党大会でシュタインマイアーはSPDの連邦レベルでの副党首に選出されました。さらに、2007年11月にミュンテフェリング副首相兼労働相が夫人の病気からの辞任すると、その後任として副首相に就任しました。
 そして、冒頭にも紹介したとおり、2008年9月に、クルト・ベック党首が突然辞任すると、その後の空白の1ヶ月間、党首職を代行し、ミュンテフェリングが党首に選出されると同時に、2009年総選挙でSPDの連邦首相候補となることが決定したのです。
 さて、ここまでの紹介で、私は大事なことを一つ書き落としています。それは彼には、現時点において、連邦議会の議席がない、ということです。ツィプリースは、2005年の総選挙で見事連邦議会議員になっているのですから、シュタインマイヤーもそうすれば良かったのです。何故そうしなかったのかはわかりません。
 とにかく、首相候補として戦う2009年9月の総選挙で、彼は初の議席を得るはずです。日本で、衆議院議員として初当選する者が、そのまま首相になる可能性がどのくらいあるかを考えれば、ドイツ政界の柔軟性が判ります。また、シュタインマイヤーを最初に首相候補に内定したのが、やめたベックであることを考えると、彼が党内で、党派を問わず、どれほど期待されているかがよく判ると思います。
 もし彼が2009年9月に首相になれば、ドイツは再び改革にチャレンジすることになります。米国のバラクの叫ぶチェンジと相まって、世界は改革の方向に向かって走り出そうとしています。改革を一休みしようとしている日本に未来はあるのでしょうか。
[注]
 総選挙で、政党がそれぞれ首相候補を決めて戦うと聞くと、まるで米国の大統領選挙のようなやり方ではないか、と錯覚する方がいるかもしれないので、注記します。
 ドイツ連邦議会の選挙制度は、日本の現行衆議院議員選挙と基本的に同じ小選挙区・比例代表制なので、有権者は2票の投票権を持っています。第一の票は、選挙区選挙の投票権で、それぞれの選挙区の候補者のうち、最多得票者が連邦議会議員に選出されます。第二の票は、比例選挙区の票で、ここでは政党を選択します。政党は州単位で名簿を用意し、その得票率に応じて名簿の上位者から連邦議会議員となれるわけです。
 日本との違いは、第一の票数と第二の票数を集計し、各党の得票数の比率に対応するように議席配分がなされる点です。
 ただし、ある政党が、比例配分で得られるはずの議席数を超える候補者を選挙区選挙で当選させていた場合には、その「超過議席」を保有することが認められます。その結果、1994年の選挙では議員定数は656議席でしたが、この超過議席の結果、総議員数は672名でしたし、1998年の選挙では669名でした。2002年の選挙時には定数を598議席と大幅に縮小した結果、実際の議席数も599議席とほとんど一緒でした。しかし、2005年選挙の結果である現在は614議席と、選挙ごとに総議員数は乱高下しています。
 この第二の政党の選択に関しては、CDU/CSUやSPDは、これを首相の選択と読み替え、それぞれ首相候補者の顔写真を掲げて戦います。なお、党首と首相候補者とは必ずしも一致しません。例えば1998年の選挙では、CDUでは、ヘルムート・コールは党首であり、首相候補者でしたし、2005年選挙ではメルケルがCDU党首兼首相候補者でした。それに対し、SPDでは、1998年選挙では党首はラ・フォンテーヌで首相候補者がシュレーダーだったのです。2005年の選挙時には、SPD党首はミュンテフェリングに変わっていましたが、首相候補者は依然としてシュレーダーだったわけです。このように、最近の選挙では、なぜかSPDが、党首と首相候補者を分ける癖があります。
 ドイツの連邦議会議員選挙における投票率は、1998年は82.2%、2002年は79.1%、2005年は77.7%と、だいたい80%内外の数字になっていて、60%内外の日本の総選挙よりかなり高率です。これは、選挙区選挙でも、比例区選挙でも「顔の見える選挙」が行われている結果だとドイツ人は自慢しています。小泉首相が正面に出て戦った2005年9月の総選挙が例外的に高い67.51%だったことを考えると、その主張には一理あります。とにかく、ドイツの総選挙は、候補者本人の宣伝カーなどは先ず見かけない静かな選挙であるだけに、首相候補者が誰であるかは、個々の連邦議会議員の命運をも左右する、極めて重要な要素です。
 日本の自由民主党も、麻生総裁とは別に、首相候補者を立てるという選択肢を検討した方がよいのかもしれません。
 
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