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ご無沙汰しています

 投稿者:ゼミ7期生竹村ですメール  投稿日:2006年12月20日(水)14時57分12秒
  こんにちは。お久しぶりです。最近寒さが厳しくなっていますが、甲斐先生にはいかがお過ごしでしょうか。

当方、先生には時候の挨拶もせず、非常に無沙汰をしております。
先日のOB総会も事前に日程の調整がつかず、やむなく欠席しました。今、あらためて考えてみれば、総会の当日に会場に少し顔を出して、挨拶するくらいはできたのだと思いますが、過ぎてしま
えば悔いても仕方のないことでしかないのでしょう。

本日、ここに私がのこのこと出てきたのは、資料の検索をしていて、先生のホームページに行き着いたためです。ざっと拝見いたしましたが、先生はまたひどい怪我をされたようですし(スキーで転倒されたとか)、数年前までの生気に満ち溢れた先生しか記憶にない自分としては、ご自分の体質を「蒲柳」などと嘆く先生の気弱な発言を目にして「先生は(身体の方は)大丈夫なのか」と非常に心配になり、出てきた次第です。

私も丈夫な方ではありませんので、他人の健康状態にけちを付ける気は毛頭ありませんが、しかし、先生も今年で58歳になると聞いては、やはり年月の経つことの速さを実感せずにはいられま
せん。
思えば先生は、国家公務員として20年以上にわたり奉職された後に、大学の教員として教鞭をとられるようになったわけで、やはりここへきて、公務員時代の激務が体に響いてきているのではないかと密かに心配してしまったら、投稿せずにはいられなくなりました。

このようなことを書くと「縁起でもない」と思われるかもしれませんが、八木先生のことといい、公務員は職務に専念するあまり、職務の遂行に際して、相当な無理をしている人が多い様に私個人としては思えます。よって、一人で先生の健康状態を心配して悩むよりは、いっそここに心情を書き記すことにいたしました。

すでに暮れも押し迫っておりますが、学部の講義にロースクールと両方抱えていては、先生も大変だろうと推察しております。
せめて年末からお正月にかけてはゆっくりされて、滋養のあるものでも食べて、少しでも英気を養っていただきたいと、心から思う次第です。

現在自宅のパソコンのメール受信機能がいかれており、メールの送受信が確実ではないために、こちらの掲示板を利用した次第です。
風邪などひいたりしないように、どうぞお体を大事になさって下さい。

甲斐ゼミ7期生 竹村
 
 

国民主権

 投稿者:憲法1年  投稿日:2006年12月 8日(金)13時51分47秒
  甲斐先生、ありがとうございました。
憲法ゼミナールも手元にありますので、
基本書と一緒に読んで
理解するよう努めます。
 

国民主権について

 投稿者:甲斐素直メール  投稿日:2006年11月19日(日)05時54分44秒
編集済
   これは、国民主権概念の基礎の部分なので、「いまいち」という漠然とした訊き方をされても応えることは不可能です。まともにこれに応えてしまうと、ここで1冊の本を書く羽目になってしまうのです。もう少し質問点を絞り込んでください。
 とはいうものの、それだけでは冷たい返事になりすぎるので、仮に、一番基礎の部分で引っかかっているという想定の下に、最低限の説明するとこうなります。
 ここで、プープル主権と呼ばれているのは、わが国の憲法論では、人民主権論と呼ばれているもののことです。代表的な学者としては駿河台法科大学院の杉原泰雄とか、東北大の辻村みよ子がいます。ナシオン主権と呼ばれるのは、(狭義の)国民主権説と呼ばれるもので、わが国の通説であり、芦部信喜や佐藤幸治もそれに属します。
 人民主権説の特徴は、簡単に言ってしまえば、有権者が主権者だと考える点にあります。つまり、君がまだ19歳なら、君はこの説の下では主権者の一員ではないのです。有権者集団は、民法の言葉を借りるならば、行為能力を持った人の集団です。だから、国家機関として活動することができます。つまり国権の最高機関というわけです。この結果、この概念は直接民主制を基本的に要求し、それを補完する意味においてのみ、間接民主制を肯定します。だから、人民投票、人民拒否、人民発案など、直接民主制的な制度を要求します。あるいは、国会議員は、命令的委任の下にあると考えるので、その委任に反した行動をしたときには、彼を解任(リコール)することが人民の当然の権利です。
 これに対し、国民主権説の特徴は、老若男女の別無く、すべての国民が主権者であると考える点にあります。だから生まれたての赤ちゃんとか、死ぬ寸前の老人というように、行為能力を持たない人も含んでいます。正確に言えば、まだ生まれていない人や死んでしまった人も含む国民の総体と理解するのが正しいのです。その結果、こちらの説では、国民というものを具体的な人の集団として把握することはできません。抽象的な概念です。すなわち、この国民を代表する国会が「国権の最高機関」だというための論理的前提に過ぎません。芦部先生いうところの「正統性の契機としての国民」とはこの意味です。この結果、実際に主権者として行動する国家機関としては国会が現れます。この説のことを別名「議会主権」と呼ぶのはこのためです。有権者は、国民の一部であって、全体ではありませんから、国会から法律で与えられた以上の権限は持ちません。すなわち、国民投票、国民発案、国民拒否等は認められず、また命令的委任の禁止(自由委任)の結果、国会議員の解任権が有権者に認められることもありません。
 このように書くと、芦部先生は「国権の最高機関」は政治的美称であって、法的意味がないと考えているはずではないか、という疑問が出ると思います。答えは二つに分かれます。第一に、上記説明は、正統性の契機としての国民に関するものだということです。ところが、現行憲法は、これとは別に権力性の契機としての国民を認めています。具体的には、憲法96条にいう国民は、明らかに有権者集団のことで、しかも憲法改正の決定という具体的な活動を行う権限を持っているので、明らかに国家機関です。このように、先に述べた抽象的存在ではなく、具体的な国家機関としての国民のことを、権力性の契機としての国民と呼ぶわけです。こちらの国民が存在する結果として、41条の「国権の最高機関」には法的意味がないと考えざるを得ないというのが、政治的美称という言葉の意味です。
 第二はこうです。政治的美称とは、法的にはともかく、政治的には国会が国権の最高機関という意味です。何故そう考えるかというと、上記の通り、国民主権説をとっているからです。
 なお、詳しく勉強したいのなら、杉原泰雄「憲法Ⅰ」有斐閣法学叢書95頁以下が、学生諸君を意識した易しい説明だと思います。図書館にありますから、読んでみてください。もう少し簡単に知りたいというのであれば、私の「憲法ゼミナール」19頁以下を読んでみてください。
 

国民主権

 投稿者:憲法1年  投稿日:2006年11月17日(金)00時46分39秒
  すいません。
送信ボタンを押してしまいました。
初歩的な質問で申し訳ございませんが、
よろしくお願いします。
 

国民主権

 投稿者:憲法1年  投稿日:2006年11月17日(金)00時43分50秒
  初歩的な質問で
申し訳ありません。
プープル主権とナシオン主権の概念が
いまいち、つかめません。
なので、その立場だとことが言えるか、どういった見解にたつのか
といったことがわかりません。
芦辺憲法を基本書としています。
読んでみるのですが、抽象的すぎて
よくわかりません。
 

回答

 投稿者:甲斐素直メール  投稿日:2006年 9月26日(火)09時21分49秒
   どうも議論の些末の部分に拘りすぎて、全体が見えなくなっている感じですね。
① 芦部先生は、宗教団体の自律性尊重の観点から、宗教上の教義にわたる事項については裁判所は実体的な審理判断を行えない、とおっしゃっていますが、この結果、請求自体が却下されるのでしょうか。それとも、本案判決をするにあたって当該事項を考慮できないにすぎないのでしょうか。
○ これは無意味な質問です。請求が何かによって答えが変わります。宗教上の教義そのものを争ったり、それに法律上の紛争の装いを与えたに過ぎない場合には、請求が却下されます。それに対して、教義それ自体は前提問題をなしているに過ぎず、本体は、れっきとした法律上の紛争である場合には、その自律的判断を尊重することになります(つまり、君が「考慮できない」とするのは間違いです)。
 君に基本的な誤解がある気がするので、付言するのですが、部分社会(“いわゆる”という言葉の付かない、法学上の概念)の紛争においては、裁判所は、それが全体社会の規範に衝突する場合を除き、常に当事者の自律的判断を尊重し、それを前提にして紛争の解決を図ります。例えば、民事契約に関する紛争の場合、当事者がどのような合意をしたと認められるか、あるいは当事者が当然の前提としている事実たる慣習は何かということを明らかにし、それを前提に紛争の解決を図ります。同じように、株式会社内部の紛争であれば、株式総会が、会社法の定める規則に則って行われているか否かは審査しますが、決議内容そのものは、それが法の禁ずる場合(例えば少数株主権の侵害)を除き、総会決議を尊重して紛争の解決にあたります。その意味では、宗教結社の場合にも、裁判所は特別の事をしているわけではありません。ただ、そこに信教の自由の保障が存在する結果、裁判所が尊重するべき範囲が広がっているに過ぎないのです。

② 種徳寺事件の訴訟物には、甲斐先生が言われたもの以外に、建物明渡請求とその前提たる代表役員の地位確認があったと思うのですが、そうすると、種徳寺事件も法律上の争訟にあたるのではないでしょうか。また、代表役員の地位確認の前提として住職の地位確認が必要である以上、訴訟物は3つに区切られるのでしょうか。そして、蓮華寺事件も同様の事案であるから、蓮華寺事件の訴訟物も3つに区切られるのではないでしょうか。
○ 君の錯覚ないし判例の読み間違いです。判決文は次のように述べています。
「 所論は、要するに、原審が上告人の新訴については住職たる地位が宗教上の地位であるにすぎないことを理由としてその訴を不適法として却下しながら、これと併合して審理された被上告人種徳寺の上告人に対する不動産等引渡請求事件については曹洞宗管長のした住職罷免の行為をもつて法律的紛争であるとして取り扱い、本案の判断を示したのは、理由齟齬の違法を犯すものである、というにある。」
 役員たる地位の確認なんて言葉はかけらもありませんね? その他の点についても、判決文を引いた方が早いでしょう。
「論旨指摘の原審の各判断は、互いに当事者を異にし、訴訟物をも異にする別個の事件について示されたものであるから、その間に民訴法三九五条一項六号所定の理由齟齬の違法を生ずる余地はなく、したがつて、論旨はこの点において理由がない。のみならず、被上告人種徳寺の上告人に対する右不動産等引渡請求事件は、種徳寺の住職たる地位にあつた上告人がその包括団体である曹洞宗の管長によつて右住職たる地位を罷免されたことにより右事件第一審判決別紙物件目録記載の土地、建物及び動産に対する占有権原を喪失したことを理由として、所有権に基づき右各物件の引渡を求めるものであるから、上告人が住職たる地位を有するか否かは、右事件における被上告人種徳寺の請求の当否を判断するについてその前提問題となるものであるところ、住職たる地位それ自体は宗教上の地位にすぎないからその存否自体の確認を求めることが許されないことは前記のとおりであるが、他に具体的な権利又は法律関係をめぐる紛争があり、その当否を判定する前提問題として特定人につき住職たる地位の存否を判断する必要がある場合には、その判断の内容が宗教上の教義の解釈にわたるものであるような場合は格別、そうでない限り、その地位の存否、すなわち選任ないし罷免の適否について、裁判所が審判権を有するものと解すべきであ」るとしています。これを読めば、「代表役員の地位確認の前提として住職の地位確認が必要である」という君の前提が間違っていることが自ずから判ると思います。

③ 甲斐先生は、板まんだら事件の訴訟物を寄付行為の無効確認とおっしゃられましたが〈違っていたらすみません〉、かかる無効確認は不当利得返還請求の前提であるから、板まんだら事件の訴訟物も2つに区切られるのではないでしょうか。
○ 私が説明したのは、これが民法95条の錯誤の問題として訴えが提起されたということです。それが肯定されれば、後は一直線の法律問題ですから、別に区切らなければ理解できないということはないと思います。区切るという議論は、要するに、宗教問題と法律問題を区切るかどうかの問題だからです。

④ 芦部先生の見解によると、本門寺事件は、訴訟物は2つに区切られないが、宗教上の教義の解釈が必要でない事案であるから、司法審査が行われるのに対し、日蓮正宗管長事件〈最判平5・9・7〉は、同様に訴訟物は2つに区切られないが、宗教上の教義の解釈が必要な事案であるから、司法審査は行われない、という理解でよいのでしょうか。すなわち、後者は、「紛争の実体ないし核心が宗教上の争いであって紛争が全体として裁判所による解決に適しない場合」〈法律上の争訟にあたらない場合〉という理解でよいのでしょうか。
○ その通りです。日蓮正宗の場合には、判決文自体に「特定の者の宗教活動上の地位の存否を審理、判断するにつき、当該宗教団体の教義ないし信仰の内容に立ち入って審理、判断することが必要不可欠である場合には、裁判所は、その者が宗教活動上の地位にあるか否かを審理、判断することができず、その結果、宗教法人の代表役員の地位の存否についても審理、判断することができないことになるが、この場合には、特定の者の宗教法人の代表役員の地位の存否の確認を求める訴えは、裁判所が法令の適用によって終局的な解決を図ることができない訴訟として、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというほかない。」と明記してあります。芦部先生がこれについての《コメント》は出されるわけがありませんが、当然同じことを言うはずです。

⑤ 甲斐先生は、実際上の問題から、蓮華寺事件の建物明渡請求についての司法判断はすべきであり、僧籍はく奪処分の「手続きが正しく行われているという点についての司法審査を行い、クリアすれば、当然に第二の、純然たる法律上の紛争について司法審査が可能」だとおっしゃられていますが、蓮華寺事件は、宗教上の教義の解釈が必要な事案であるから、芦部先生の見解によれば、建物明渡しについての司法判断はやはり不可能なのではないでしょうか。
○ 第1の質問に対する答えで、十分この質問に対する答えにはなっていると思います。いわゆる部分社会の法理という説を使うと否とに関わりなく、この自律権の尊重という議論は、憲法訴訟論的にいえば、自制説に属し、けっして内在的制約に属する問題ではないので、「司法判断が不可能」という言い回し自体が間違いです。そして、尊重すれば、それを前提に判断を下すのは当然のことです。袴田事件の判例を読み込むことを勧めます。
 

司法権の限界

 投稿者:法学部生  投稿日:2006年 9月23日(土)07時33分41秒
  先日は、お忙しい中回答ありがとうございました。あれから、甲斐先生の回答をよく読んでみたのですが、まだ理解できてないと思うので、いくつか質問させてください。
① 芦部先生は、宗教団体の自律性尊重の観点から、宗教上の教義にわたる事項については裁判所は実体的な審理判断を行えない、とおっしゃっていますが、この結果、請求自体が却下されるのでしょうか。それとも、本案判決をするにあたって当該事項を考慮できないにすぎないのでしょうか。
② 種徳寺事件の訴訟物には、甲斐先生が言われたもの以外に、建物明渡請求とその前提たる代表役員の地位確認があったと思うのですが、そうすると、種徳寺事件も法律上の争訟にあたるのではないでしょうか。また、代表役員の地位確認の前提として住職の地位確認が必要である以上、訴訟物は3つに区切られるのでしょうか。そして、蓮華寺事件も同様の事案であるから、蓮華寺事件の訴訟物も3つに区切られるのではないでしょうか。
③ 甲斐先生は、板まんだら事件の訴訟物を寄付行為の無効確認とおっしゃられましたが〈違っていたらすみません〉、かかる無効確認は不当利得返還請求の前提であるから、板まんだら事件の訴訟物も2つに区切られるのではないでしょうか。
④ 芦部先生の見解によると、本門寺事件は、訴訟物は2つに区切られないが、宗教上の教義の解釈が必要でない事案であるから、司法審査が行われるのに対し、日蓮正宗管長事件〈最判平5・9・7〉は、同様に訴訟物は2つに区切られないが、宗教上の教義の解釈が必要な事案であるから、司法審査は行われない、という理解でよいのでしょうか。すなわち、後者は、「紛争の実体ないし核心が宗教上の争いであって紛争が全体として裁判所による解決に適しない場合」〈法律上の争訟にあたらない場合〉という理解でよいのでしょうか。
⑤ 甲斐先生は、実際上の問題から、蓮華寺事件の建物明渡請求についての司法判断はすべきであり、僧籍はく奪処分の「手続きが正しく行われているという点についての司法審査を行い、クリアすれば、当然に第二の、純然たる法律上の紛争について司法審査が可能」だとおっしゃられていますが、蓮華寺事件は、宗教上の教義の解釈が必要な事案であるから、芦部先生の見解によれば、建物明渡しについての司法判断はやはり不可能なのではないでしょうか。
回答よろしくお願いします。
 

司法権の限界(その2)

 投稿者:甲斐素直メール  投稿日:2006年 9月 7日(木)09時20分34秒
   よく勉強していますね。先の答えを書く時、きちんと勉強していれば、君の質問が出てくることは予想していたのですが、それに答えるとなると、純然たる理論の問題ではなく、芦部先生が考えておられたことの想像論に踏み込まなければならなくなるので、いきなりその様なことを言い出すとかえって混乱するか、と考え、前回の回答、その辺を省いていたのです。
 すなわち、教科書の記述だけでは、芦部先生が、蓮華寺事件の判決の結論に賛成しているのか、反対しているのか、よく判りません。しかし、私の想像では、芦部先生は、判決の最終的な結論は不当であると考えておられたのです。何故そう想像するかというと、教科書で紹介している判旨は、私が前回引用した建物明け渡し関連の部分ではなく、僧籍剥奪に関する部分だけだからです。
 ではどうすべきかというと、おそらく、日本共産党袴田里見事件の処理の仕方を妥当と考えたと思っています。
 袴田事件の場合、日本共産党は、まず袴田副委員長を除名しました。その上で、日本共産党所有の家屋からの明け渡しを求めたのです。最高裁判所は、いわゆる部分社会の法理を適用し、「政党の結社としての自主性にかんがみると、政党の内部的自律権に属する行為は、法律に特別の定めのない限り尊重すべきである」として、除名の当否については判断を拒否しました。そして、家屋明け渡し請求については、「本件建物の明渡及び賃料相当損害金の支払を求めるものであるところ、右請求が司法審査の対象になることはいうまでもない」として司法審査を行ったのです。
 この論理は、政党の代わりに宗教法人とし、除名の代わりに僧籍剥奪とすれば、論理構造それ自体は蓮華寺事件と少しも変わりません。したがって袴田事件の論理を蓮華寺事件に適用すれば、僧籍剥奪は部分社会の内部自律権問題として司法権の限界に触れるということになります。そして、建物明け渡し請求は、これを受けての純然たる法律上の争訟ということになります。したがって、僧籍剥奪処分の手続きが有効であるということを前提に考えれば、蓮華寺の明け渡し請求が認められることになります。
 芦部先生は、「住職の選任ないし罷免の手続き上の問題についてのみ、審理判断することが許される」として、袴田事件の記述を紹介しておられるのが、こう想像する理由です。
 蓮華寺判決では、裁判所は中立を維持すべきであるという論理の下に、建物明け渡しについても判断を拒否したのですが、これは、実際問題としては、元住職の居座りを認める効果を持ちます。これは、檀家の人々にとっては実に困った事態です。日蓮正宗の本山から僧ではないとされた人が居座るお寺で、日蓮正宗の仏事をきちんとやっていただけるのか、という問題が起こり、解決不可能になってしまうからです。そういう実際面の効果を考えても、建物明け渡しについての司法判断は下すべきだったのです。
 板曼荼羅事件と、蓮華寺事件の違いは、このように、訴訟物を二つに明確に区切れるか否かという点にあります。板曼荼羅事件では、寄付それ自体に要素の錯誤があると主張しており、その要素の錯誤とは、教義解釈の違いのことだったのです。つまり、法律上の紛争と宗教上の紛争とは、同一の問題を、法律面から見るか、宗教面から見るかという違いに過ぎないのです。それに対し、蓮華寺事件では、訴訟物が、僧籍剥奪処分の有効性と、その有効であることを前提とした建物明け渡し請求の二つに区分できます。そして、宗教上の争いは、第一の僧籍剥奪処分についてだけ存在しているのです。そこで、その手続きが正しく行われているという点についての司法審査を行い、クリアすれば、当然に第二の、純然たる法律上の紛争について司法審査が可能ということになります。
 第3の質問として、君は、種徳寺事件及び本門寺事件について聞いています。知らない人のために簡単に説明すると、種徳寺事件(最判昭和55年1月11日)では、訴訟物は、住職たる地位にあることの確認を求める、というものでした。しかし、最高裁判所は、住職というのは、宗教上の地位であって、法律上の地位ではないので、司法審査の対象にはならないと判決しました。
 そこで、本門寺事件(最判昭和55年4月10日)では、訴訟物として 宗教法人本門寺の代表役員兼責任役員であることの確認を求める、というものになっています。最高裁判所は「何人が宗教法人の機関である代表役員等の地位を有するかにつき争いがある場合においては、当該宗教法人を被告とする訴において特定人が右の地位を有し、又は有しないことの確認を求めることができ、かかる訴が法律上の争訟として審判の対象となりうるものである」と宣言しました。そして「寺の住職として活動するにふさわしい適格を備えているかどうかというような、本来当該宗教団体内部においてのみ自治的に決定せられるべき宗教上の教義ないしは宗教活動に関する問題ではなく、専ら上告人寺における住職選任の手続上の準則に従って選任されたかどうか、また、右の手続上の準則が何であるかに関するものであり、このような問題については、それが前記のような代表役員兼責任役員たる地位の前提をなす住職の地位を有するかどうかの判断に必要不可欠のものである限り、裁判所においてこれを審理、判断することになんらの妨げはない」と判決しました。 したがって、答えとしては、種徳寺事件は法律上の争訟ではないが、本門寺事件は法律上の争訟ということになります。この結論に関する限り、芦部先生も違いはないはずです。
 

司法権の限界

 投稿者:法学部生  投稿日:2006年 9月 6日(水)17時03分54秒
  お忙しいなか、質問に対する回答ありがとうございました。
まだ完全に理解できていないと思うので、さらにいくつか質問させて下さい。
①まず、蓮華寺事件判決は結論として「法律上の争訟にはあたらない」と判示していますが、芦部先生の見解からいえば、蓮華寺事件は、法律上の争訟にはあたるが、宗教団体の自律的判断を尊重する観点から、司法審査が及ばない事例ということになるのでしょうか。
②仮にそうだとして、「板まんだら」事件は法律上の争訟にあたらないのに、蓮華寺事件は法律上の争訟にあたるのは、一体どこに違いがあるからなのでしょうか。最終的には両者とも宗教上の教義の解釈が必要であるため同じ事案のように思えるのですが。これは、蓮華寺事件は、日蓮正宗宗規所定の懲戒事由に該当するか否かが直接争われた点において、宗教上の教義の解釈そのものが争われた「板まんだら」事件とは違うということなのでしょうか。
③さらに、芦部先生の見解からいえば、種徳寺事件や本門寺事件も、法律上の争訟にあたる事例なのでしょうか。
質問に対するご回答よろしくお願いします。
 

司法権の限界

 投稿者:甲斐素直メール  投稿日:2006年 9月 5日(火)16時26分2秒
   この2~3日、忙しくて、この欄をチェックしなかったので、回答が遅れて申し訳ない。
 これは司法権の限界といわれる問題です。君が芦部憲法を、もう少し頁を進めて、「団体の内部事項に関する行為」というところまで読んでくれると、地方議会、大学、政党、宗教団体というように、これをまとめて紹介してあることに気がつくはずです。今日では、いわゆる部分社会の法理という表現で論じられていますが、芦部先生はこの説を排斥するため、個別の場合における自律権の尊重から説明していくわけです。
 第一に、司法権は、法律上の争訟についてのみ対象とします。だから、宗教上の教義、解釈等が争点になっている場合には、司法審査の対象となりません。例えば、板曼荼羅事件があります(最判昭和56年4月7日)。この事件では、原告は、日蓮正宗がわが国に「広宣流布」していると思って寄付金を出したのですが、実際には「広宣流布」していなかったので、要素の錯誤で寄付は無効だ、と主張した事例です。ちょっと見ると、要素の錯誤という主張ですから、法律上の争訟のように見えます。しかし、要素の錯誤が成立するか否かは結局、「広宣流布」しているか否かで決まり、この概念は、法律的に決定できることではなく、日蓮正宗の教義の解釈問題なのです。だから、これは結局法律では、終局的解決ができない問題ということになり、司法審査の対象からはずれます。
 第二に、宗教団体内部の紛争であっても、議論そのものは、法律論に終始しているのであれば、司法審査の対象になります。例えば日蓮正宗蓮華寺事件というのがあります(最判平成元年9月8日)。この事件では、日蓮正宗の本山が、その末寺である蓮華寺の住職Xから僧籍を剥奪したのです。その結果、Xは、自動的に蓮華寺の住職たる地位を失い、さらに宗教法人蓮華寺の代表役員及び責任役員たる地位を失い、蓮華寺の建物の占有権原も喪失した訳です。そこで、宗教法人蓮華寺が、Xに対して、お寺の建物を、所有権に基づいて、明渡を求めたという事件です。これに対して、Xの方では、この僧籍剥奪処分は、日蓮正宗宗規所定の懲戒事由に該当しない無効な処分であると主張して争ったのです。この場合、建物の明け渡し請求それ自体は、れっきとした法律上の争訟であり、且つ、それで完結しています。だから、この裁判は、司法審査の対象になるわけです。
 ところが、何故明け渡しの必要があるのか、というと、結局Xが僧籍を剥奪されたからです。そして、なぜ僧籍を剥奪されたかというと、Xが、本山の主流派と異なる教義の解釈を行ったからです。だから、僧籍剥奪処分が有効か否かという点は、先に挙げた板曼荼羅事件と同じ理屈で、司法審査の対象とはなりません。この蓮華寺事件では、最高裁判所は、いわゆる部分社会の法理というようなことはいわず、20条の解釈論で説明しています。すなわち、「宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については、憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきである」というのです。これが第三の場合の説明ということになります。
 

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