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ハワイ島在住の元邦人の伯母の弁護士から危篤の報があり

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2009年 6月 8日(月)08時02分25秒
  先日、本欄を通じて「ハワイ島在住の元邦人の伯母の弁護士から危篤の報があり」との相談を私に寄せられた方に。
 「管理者へのメール機能」を通じて私にメイルをくださった場合、その本文中にご自分のメイルアドレスを書いてくださらないと、私として送信者を知ることができず、返事を差し上げることができません。そこで、一応の返事をこの欄に書いておくことにします。
 事情が今ひとつよく判らないので、一般的な返事を差し上げる以外にないのですが、アメリカ法の下では、伯母さまの弁護士に不満がある場合、日本でいえば家裁に相当する巡回裁判所を通じて、その弁護士の罷免を争う他はないと思われます。その際、弁護士を雇う余裕がない場合には、ハワイ州弁護士会に相談するか、ハワイ大学ロースクールに相談されれば、何らかの法的援助を与えて貰えるものと思われます。しかし、日本にいたままでそうした援助を得ることは困難です。6月中であれば、ハワイ往復5万円程度で可能ですので、早めに一度ハワイに行かれることをお勧めします。
 
 

私宛の個人メール

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2009年 4月 8日(水)09時56分46秒
   この掲示板の一番下にある「管理者へメール」機能で私にメイルをくださる方で、私からの回答を希望される方は、そのメイル内に、必ず返信先のアドレスを書いておいてください。「管理者へメール」は、私へのスパムメイルを防ぐのですが、同時に送信者のプライバシーも守っているため、返信先のアドレスは私にはわからないのです。  

Amoklauf

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2009年 3月17日(火)17時24分28秒
編集済
   昨日まで、1週間、ミュンヘン大学を駆け足で訪問してきました。この1週間の間にドイツで起きた最大の事件といえば、なんと言っても大量殺人事件でしょう。
 日本ではあまり報道されなかったようなので、簡単に紹介すると、事件は、ドイツ南部シュツットガルト北東20キロの町ウィンネンデンWinnendenにあるアルベルトビレ実科学校(Albertville-Realschule)で11日、男が銃を乱射し、生徒らを殺害した、という形で発生しました。犯人はその場から逃走しましたが、警察がヘリコプターなどを出動させて追跡、発見し、銃撃戦の末射殺しました。犯人は、17歳の同校の元生徒でした。写真を見る限りでは、かわいい顔をした普通の男の子です。
 死者は16人に上りました。犯人が死亡し、特段の遺書も残していなかったため、犯人の動機は不明ですが、失恋したせいではないかと見られています。というのも、犠牲者の大半は女性だったからです。すなわち、殺害された生徒9人中8人、教師3人が女性でした。犠牲者の中には、鉛筆を手に持ったまま死亡した女学生もいたといいますから、のっけにその女性を射殺したことになります。
 ドイツは、アメリカなどと違い、銃の規制は実に厳しく行われている国であるだけに、この事件はドイツに大変大きな衝撃を与えました。事件後1週間近く経過した今になっても、新聞が毎日紙面のかなりを割いて報道しているほどです。犯人の少年の銃器入手方法は、しかし、単純なものでした。犯人の両親は銃保持の免許を得ており、なんと計18丁の銃を所有しており、その1丁を使用したというのです。

 この報道で、盛んにAmoklauf という言葉がテレビでも新聞でも使われています。つまり、ドイツ人にとっては日常的な言葉です。ところで、私は、パソコンに二つの独和辞典を登載していますだが、そのどちらにもこれは載っていないのです。そこで、ネットサーフィンをやったところ、ドイツ語のウィキペディアに意味が載っているのを発見しました。そこから、さらに日本語のものを探したところ、あるホームページに、次のような解説が書かれているものを見つけ出しました。
「 マレーシア、インドネシア、フィリピン。東南アジアのモンスーン気候の国々ですが、近代化される以前の部族社会では、アモックと呼ばれる、人を無差別に殺傷する事件が起きていました。何か悲しい事があったり、侮辱を受けた後、部族の人との接触を避け、引きこもり、暗い目をして、物思いにふけっているような状態になる。そして、突然、身近の武器を手に、通りへ飛び出し、遭遇した人をかたっぱしから、殺傷してしまう。殺戮は本人が自殺、または、殺されるか、取り押さえられるまで続き、後で正常に戻った時には、人を殺傷していた時の記憶を失っている。」
 なるほど、失恋から無差別殺人に走ったから、アモックがLaufen(走る)ということで、Amoklaufという訳なんですね。それにしても、欧州で、日本人の知らないアジアの言葉が一般に使われているというのは、面白い現象です。
 しかし、原因を正確に突き止めないままに、精神病だと決めつけるのもどうかと私は思うのですが…。また、識者なるものが、さかんに人を射殺するテレビゲームの悪影響を云々しているのも、同じく実に短絡的な反応と思っています。
 

首相候補シュタインマイヤー

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2009年 2月20日(金)10時23分12秒
編集済
   1945年の敗戦から1990年のドイツ再統一までの45年間にドイツ社会民主党(SPD)は4人の党首を持っていました。平均して1人11年強の在職期間ですから、当時のSPDは大変安定した政党であったわけです。ないしは非常に統一的な政党であったのです。他方、1991年から2008年までの間に、SPDの党首は7回も変わっています。そして、2008年10月18日、SPDは臨時党大会を開いて、8人目の党首として、かつての党首ミュンテフェリングを選出しました。つまり最近では平均して2年に1人のペースで党首を替えていることになります。これは、毎年のように党首を交換している日本の自由民主党からすれば、まだ間が空いていますが、1990年までの安定性を基準にすれば、大変な不安定さで、不統一な状態に陥っていることを端的に示していると言えます。普通、こういう不統一状態は、左右両翼の対立と説明します。しかし、南ドイツ新聞によれば、SPDは2枚どころか、トンボ顔負けに4枚の羽を持っているためだ、と説明しています。あるいはカメレオンのように、いろんな色になれる政党になったためだというのです。
 話が先走りました。以前に本欄で、ドイツではメルケル首相の人気のお陰で、その率いる与党キリスト教民主同盟CDU/キリスト教社会同盟CSUが強く、それに対して、それと連立政権を組んでいるSPDでは、ベック(Kurt Beck)党首に人気がないことから低落傾向にあること、そのためかつて同党党首の座にありながら愛妻の看病のため、惜しげもなくその座を捨てたミュンテフェリングの復帰を、同党の支持者は待ち望んでいるという話を書きました。
 ベック党首は、その後、2008年9月はじめに、SPD内部でさえ予期していなかったほど、全く不意打ちに党首の座を投げ出しました。その辺は、ちょっと安倍首相の投げ出しぶりと煮ていますね。そして、その後任選びにすったもんだした末に、ようやく10月中旬になって1ヶ月余に及ぶ党首の空白を埋めることができたわけです。このように長い空白を余儀なくされたのは、同党が一枚岩の政党ではなく、4枚羽の政党だから、というわけです。
 ベックからミュンテフェリングへ党首が変わったことにより、SPDは福祉重視(換言すれば労働者へのばらまき路線)から、再び改革志向へと方向転換したことになります。日本では、目下、与野党ともに、小泉改革を完全に忘れたように、ばらまき政策の競演を行っています。それに対し、SPDは、政権奪回の手段として改革志向に転換したことは、興味のあることです。
 さて、SPDでは、党首にミュンテフェリングを選ぶと同時に、現副首相兼外相のシュタインマイヤーを、2009年9月に行われる予定の連邦議会総選挙における首相候補に宛てる決定をしました。シュタインマイヤーは、ミュンテフェリングと同様、改革派なので、別に党内対立の融和策ということではなく、純粋に総選挙で勝てる候補を選んだ、ということのようです。つまり、彼は大変国民的人気の高い人物なのです。
 このフランク=ヴァルター・シュタインマイヤー(Frank-Walter Steinmeier)という人は、したがって、近い将来においてドイツの首相となるかもしれないのに、日本ではあまり知られていません。そこで、今回は、彼の人となりを紹介することにします。
 前に、本欄で、現在ドイツの法務大臣を務めているブリギッテ・ツィプリースを紹介しましたが、シュタインマイヤーも、シュレーダー元首相の秘蔵っ子という点で、彼女とよく似た経歴の持ち主です。
 彼は、1956年生まれといいますから、1954年生まれの安倍晋三より2才若く、1961年生まれのバラク・オバマより5最年長ですが、同じゼネレーションといえます。生まれたのはドイツ北部にあって、ドイツ最大の人口を持つ州であるノルトライン=ヴェストファーレン州のデトモルトという町で生まれています。デトモルトについては、西暦7年にトイトブルガーヴァルトの戦いで、3万人のローマ軍団を撃破したゲルマン民族の英雄ヘルマンの記念碑が建っている町として、以前に本欄で紹介したことがあります。ドイツ鉄道ではなく、第3セクターの路線にある、ひなびた、中世風の美しい市街地の残る町です。
 父は木工職人、母は工場労働者といいますから、典型的な労働者階級の子弟です。ドイツは階級意識の強い国ですから、普通であれば、こういう家庭の子供は、国民学校から労働訓練所に進んで労働者になっているところです。それが、大学進学を予定しているギムナジウムに進学したのですから、子供の頃からよほど頭が良かったのでしょう(ドイツでは、労働者になるか、大学に進学するかは小学校5年の時点で決定しなければなりません。)。そのギムナジウム在校中に、すでにSPDのの下部組織である社会主義青年団(Jusos)に参加しており、大学に進む前に兵役を済ませ、それと同時にSPDに入党したというあたりは筋金入りの社会主義者という感じがします。
 1976年に、ドイツ中部、ヘッセン州にあるギーセン大学に入学、1982年に司法試験合格、1986年に司法修習の最後にある2回試験に合格しますが、その後は母校で政治学(公法)の助手として勤務しつつ、博士論文を書いて、1991年に無事法学博士号を取得します。博士号取得と同時に、今度はニーダーザクセン州首相府に勤務するようになります。
 ちなみに、ツィプリースは1952年生まれですから、彼より4歳年長です。彼女も母校はギーセン大学で、1980年に2回試験に合格した後、最初は母校であるギーセン大学事務局で働いていましたから、ここで最初に彼と経歴が重なります。その後、連邦憲法裁判所の調査官を経て、当時ニーダーザクセン州首相であったシュレーダーにスカウトされて、1991年から同州首相府に勤務するようになるのですから、二人は同じ年に同じ職場で働き出したことになります。
 シュタインマイヤーのシュレーダーとの関わりは、その後、急速に濃密なものとなります。1993年に、彼はシュレーダーの個人秘書の一人となり、その翌年には、政策及び出納部門の長となります。さらに、1996年になると、シュレーダーは、彼を同州の首相府長官に任命します。他方、ツィプリースの方は、翌1997年に、ニーダーザクセン州女性・労働・社会省の政務次官に任命されています。
 1998年に、ドイツ連邦議会選挙でSPDが勝利して16年ぶりの政権交代を実現すると、連邦首相となったシュレーダーは、シュタインマイアーとツィプリースの二人を連れてボンに乗り込みます。ツィプリースが連邦内務省政務次官に就任したのに対し、シュタインマイヤーは連邦首相府政務次官に任命されました。
 翌1999年7月に連邦首相府長官のボド・ホンバッハが辞任すると、シュレーダーはシュタインマイアーをその後任に指名しました。この地位で、彼はシュレーダー政権の重要な基本政策を幾つも作り出します。とりわけ重要なのが「アゲンダ2010」です。
 2003年3月にシュレーダーが公表したこの包括的改革案は、社会改革を目指して、失業保険の削減、年金支給開始年齢の吊り上げ、各種福祉サービスにおける自己負担の増大など、国民に大きな負担を強いる内容でしたから、郵政民営化という軽微な改革でさえ政権が大揺れになった日本では到底考えられない過激なものといえます。当然、足下のSPDでも大きな騒ぎになり、社会改革(Sozialumbau)ではなく、社会解体(Sozialabbau)だと非難されたものです。これに対し、シュレーダーは「私は社会国家を解体しようとしているのではない。それを今後も維持していくのに必要な改革を提示しているのだ。これまでのような経済成長が望めない以上、そして少子高齢化が進んでいる以上、こういう痛みなしに社会国家は維持できない。万事、これまでどおりで大丈夫という奴の方がペテン師だ」と主張して戦い、何とか党内をまとめました。この主張、今の日本でもそのまま妥当するように、私は思っています。
 2005年は、日本とドイツで、同時期に改革を争点とする総選挙が行われたことで記憶に残る年です。日本では、郵政改革を叫ぶ小泉自民党が地滑り的大勝利を収めて世界を驚かせました。それに対し、ドイツ国民は、シュレーダー率いるSPDに代えて、アンゲラ・メルケル率いるCDU/CSUを支持したのです。これでシュレーダー改革は挫折することになります。もっとも、CDU/CSUも単独で過半数を超えたわけではなかったので、結局SPDとの大連立ということになりました。
 この大連立政権の人事で、もっとも人々を驚かせたのが、シュタインマイヤーの外務大臣就任です。ツィプリースが2002年以来就いていた法務大臣は、日本とは違って、ドイツでは華々しい脚光を浴びる職です。それに対し、シュタインマイヤーが就いていた首相府長官という地位は、日本でいえば内閣官房長官に相当しますが、いわばシュレーダーの縁の下の力持ちというべきもので、決して目立つ地位ではなかったからでした。
 就任後は地味ながら手堅く外務大臣の職務をこなしており、特に、2007年上半期には欧州連合理事会議長国を務め、暗礁に乗り上げたEU憲法に代わる新条約への道筋をつけたことなどから、その力量に信頼が集まるようになっていきます。
 他方、クルト・ベックは、選挙での敗北を受けてSPDのかつての首脳陣が退陣した後を受けて、2006年からSPD党首になっていました。彼は、あえて入閣せず、閣外からアゲンダ2010で行われた様々な政策を骨抜きにすることに努めました。すなわち、シュレーダー政権下で短縮された失業給付金の給付期間の再延長を求め、大連立与党間で協議した結果、55歳以上(12ヵ月→18ヵ月)と、58歳以上(12ヵ月→24ヵ月)で延長が決定した。また、最低賃金制度についても、建設分野以外の業種でも制定するよう求めました。
 ベックとしては、アゲンダ2010の不人気がSPDの選挙での敗北を招いたと認識していたでしょうから、当然こうすることで彼個人とSPDの人気を高めることができると考えたはずです。ところが意外なことに、SPDの支持率は、これにより20%程度に低迷し、さらにあきれたことには、福祉推進派の党首よりも、改革派シュレーダーの秘蔵っ子であるシュタインマイヤーの方が、国民的人気が高い、という結果になったのです。
 そこで、2007年10月のSPD党大会でシュタインマイアーはSPDの連邦レベルでの副党首に選出されました。さらに、2007年11月にミュンテフェリング副首相兼労働相が夫人の病気からの辞任すると、その後任として副首相に就任しました。
 そして、冒頭にも紹介したとおり、2008年9月に、クルト・ベック党首が突然辞任すると、その後の空白の1ヶ月間、党首職を代行し、ミュンテフェリングが党首に選出されると同時に、2009年総選挙でSPDの連邦首相候補となることが決定したのです。
 さて、ここまでの紹介で、私は大事なことを一つ書き落としています。それは彼には、現時点において、連邦議会の議席がない、ということです。ツィプリースは、2005年の総選挙で見事連邦議会議員になっているのですから、シュタインマイヤーもそうすれば良かったのです。何故そうしなかったのかはわかりません。
 とにかく、首相候補として戦う2009年9月の総選挙で、彼は初の議席を得るはずです。日本で、衆議院議員として初当選する者が、そのまま首相になる可能性がどのくらいあるかを考えれば、ドイツ政界の柔軟性が判ります。また、シュタインマイヤーを最初に首相候補に内定したのが、やめたベックであることを考えると、彼が党内で、党派を問わず、どれほど期待されているかがよく判ると思います。
 もし彼が2009年9月に首相になれば、ドイツは再び改革にチャレンジすることになります。米国のバラクの叫ぶチェンジと相まって、世界は改革の方向に向かって走り出そうとしています。改革を一休みしようとしている日本に未来はあるのでしょうか。
[注]
 総選挙で、政党がそれぞれ首相候補を決めて戦うと聞くと、まるで米国の大統領選挙のようなやり方ではないか、と錯覚する方がいるかもしれないので、注記します。
 ドイツ連邦議会の選挙制度は、日本の現行衆議院議員選挙と基本的に同じ小選挙区・比例代表制なので、有権者は2票の投票権を持っています。第一の票は、選挙区選挙の投票権で、それぞれの選挙区の候補者のうち、最多得票者が連邦議会議員に選出されます。第二の票は、比例選挙区の票で、ここでは政党を選択します。政党は州単位で名簿を用意し、その得票率に応じて名簿の上位者から連邦議会議員となれるわけです。
 日本との違いは、第一の票数と第二の票数を集計し、各党の得票数の比率に対応するように議席配分がなされる点です。
 ただし、ある政党が、比例配分で得られるはずの議席数を超える候補者を選挙区選挙で当選させていた場合には、その「超過議席」を保有することが認められます。その結果、1994年の選挙では議員定数は656議席でしたが、この超過議席の結果、総議員数は672名でしたし、1998年の選挙では669名でした。2002年の選挙時には定数を598議席と大幅に縮小した結果、実際の議席数も599議席とほとんど一緒でした。しかし、2005年選挙の結果である現在は614議席と、選挙ごとに総議員数は乱高下しています。
 この第二の政党の選択に関しては、CDU/CSUやSPDは、これを首相の選択と読み替え、それぞれ首相候補者の顔写真を掲げて戦います。なお、党首と首相候補者とは必ずしも一致しません。例えば1998年の選挙では、CDUでは、ヘルムート・コールは党首であり、首相候補者でしたし、2005年選挙ではメルケルがCDU党首兼首相候補者でした。それに対し、SPDでは、1998年選挙では党首はラ・フォンテーヌで首相候補者がシュレーダーだったのです。2005年の選挙時には、SPD党首はミュンテフェリングに変わっていましたが、首相候補者は依然としてシュレーダーだったわけです。このように、最近の選挙では、なぜかSPDが、党首と首相候補者を分ける癖があります。
 ドイツの連邦議会議員選挙における投票率は、1998年は82.2%、2002年は79.1%、2005年は77.7%と、だいたい80%内外の数字になっていて、60%内外の日本の総選挙よりかなり高率です。これは、選挙区選挙でも、比例区選挙でも「顔の見える選挙」が行われている結果だとドイツ人は自慢しています。小泉首相が正面に出て戦った2005年9月の総選挙が例外的に高い67.51%だったことを考えると、その主張には一理あります。とにかく、ドイツの総選挙は、候補者本人の宣伝カーなどは先ず見かけない静かな選挙であるだけに、首相候補者が誰であるかは、個々の連邦議会議員の命運をも左右する、極めて重要な要素です。
 日本の自由民主党も、麻生総裁とは別に、首相候補者を立てるという選択肢を検討した方がよいのかもしれません。
 

ワグナーの娘、祝祭を担当する

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2009年 1月13日(火)08時13分33秒
   この表題は、ベルリンの新聞、ターゲス・シュピーゲル紙が、文化面ではありますが、まるまる1頁を投入した記事の、総見出しをそのまま引用したものです。ここで祝祭(Festspiele)と略して呼ばれているのは、いわゆるバイロイト音楽祭のことです。これは、ドイツ南部のバイエルン州フランケン地方にある小都市バイロイトにある祝祭劇場(Bayreuth Festspielhaus)で毎年7月から8月にかけて行われる、ワーグナーの歌劇・楽劇を演目とする音楽祭のことです。
 音楽祭で上演される演目は、ワグナー作曲の『さまよえるオランダ人』から『パルジファル』までの10演目と限定されていて、毎年約30公演が行われます。ワグナーファンなら、一度は聞きに行きたい音楽祭で、そのため、世界で最もチケットが取りにくいコンサートと表現されることもあるほどです。
 さて、この表題を見て、最初、私は面食らいました。ワグナーといえば、バイエルンのルードヴィヒ二世の後援を得て活躍した人物で、ルードヴィヒ二世といえば、鉄血宰相ビスマルクと同時代人です。明治6年の岩倉欧米視察団がベルリンに行ったのはビスマルクに会うためですから、れっきとした歴史上の人物といえるでしょう。そのワグナーの娘が、今、生きているとはとても思えないので、面食らったのも判っていただけると思います。記事の内容を読むと、娘の1人、イーファ・ワーグナー・パスキュールは63才で、これはまあいいとして、もう1人の娘、カタリーナ・ワーグナーの方は29才だというのです。
 この記事、どこかが狂っている、と思えます。そこで調べてみて、判ったのが、今日におけるワグナー家というのは、ヨーロッパでは王侯貴族並みのセレブで、したがって、ドイツの一般読者には、現時点でのワグナー家の家族構成や、その一家の中での内紛状態がどうなっているのか、というのは常識に属する、ということです。その常識のある人に対する最新情報の提供として、変化した部分だけが載っているので、そうした常識に欠ける私では、丸1頁に及ぶ情報を提供されても、何の話か、さっぱり判らなかったのは仕方がない、ということになりましょうか。
 さて、調べた結果をお知らせすると、こうなります。ワグナーは1813年生まれで、1883年死亡ですから、完全な19世紀人です。彼は若き日を貧困の中に送り、最初の妻、ミンナは、そんな彼に愛想を尽かして逃げてしまいます。1862年のことです。ところが、その翌1863年に、ワグナーは自分の弟子であるハンス・フォン・ビューローの妻コジマと愛し愛されるようになってしまうのです。ワーグナーはその時50歳、コジマは26歳でした。この恋愛が彼に幸運を呼んだらしく、彼はバイエルン王ルードヴィヒ二世にすっかり傾倒され、実に恵まれた環境で作曲活動を行えるようになります。
 1871年に、彼はバイロイトに自分の理想どおりの劇場を作ろうと決心し、自費でその建設にかかります。これが祝祭劇場です。私も一度訪れたことがありますが、実に変わった建物です。欧州の普通のオペラ座は、石造りです。しかし、ワグナーにはお金が無かったので、これは木造なのです。普通のオペラ座では、舞台袖には彫刻が施され、天井には豪華なシャンデリアが下がり、椅子も華美な装飾が施されています。しかし、資金不足から、一切飾りはなく、椅子は詰め物のない硬い木製です。また、あまり大きなものは作れなかったのです。普通のオペラ座のように、舞台の前にオーケストラボックスを置くと客席が減ってしまいます。そこで、この劇場では、それは舞台の下に置かれて、客席からはまったく見えません。狭苦しいので、楽団員には評判の悪いオーケストラボックスということです。
 この木造と舞台の下のオーケストラボックスという二つの苦肉の策が、しかし、すばらしい音響効果を生んだのです。普通のオペラ座で、ワグナーの100人を超す楽団員で構成されるオーケストラを聴くと、その音量のすさまじさに圧倒されます。ところが、この祝祭劇場では、舞台の下にオーケストラがいるものですから、そこで第1段に音が柔らかくなり、さらに木製の壁に反響して、さらに柔らかくなります。本当にワグナーの求めていた音は、こういう音だったのか、と納得できる劇場です。なお、この劇場では拍手する事が禁じられています。これも、音響効果を妨げるからでしょうね。
 ついでに言えば、普通のオペラ座では、客室のドアを開ければ、劇場を取り巻く廊下に出ます。ところが、お金がなかったものですから、ドアを開けると、いきなり外の芝生に出るのです。幕間には、観客はその芝生をそぞろ歩き、あるいはシャンパンを傾けながら、感興にふけることができます。これも、ワーグナーの音楽を楽しむには奇しくも最高の雰囲気といえます。
 こうして、自らの音楽を、自らの望むとおりに再現できる最高の劇場を建設することで、バイロイトは、ワグナーにとっても、そのファンにとっても、聖地となります。1883年2月13日に、彼は狭心症を起こして死去します。遺体が埋葬されたのは、もちろんバイロイトです。
 こうした経緯から、バイロイト音楽祭は、世界的に重要な音楽祭であるにもかかわらず、ワグナー一族の私物という扱いになります。それをどのように運営するかは、この一族の勝手なのです。その時点で音楽祭を仕切る職を総監督といいます。この総監督の権限は絶大なものがあります。合唱団は欧州中からオーディションによって集めます。オーケストラの構成員は、ドイツのプロ・オーケストラから集めます。歌手に至っては世界中の歌劇場からピックアップします。その結果、世界で最も人種差別のない歌劇場と言われています。これら、すべてを決定するのは、総監督の芸術的感性です。つまり、その独断で決まるわけです。
 ワーグナーとコジマの間に生まれた子供のうち、男の子はジークフリートと名付けられ、1869年にスイスで生まれ、1930年に亡くなりました。父の後を継いで、祝祭劇場の最初の総監督を務めたのが彼です。そのジークフリートには、ヴィーラントとヴォルフガングという2人の息子がありました。彼らは共に舞台監督となり、祝祭劇場の演出家として1951年から共同で活躍しましたが、ヴィーラントの方は1970年に急死したので、それ以降、今日まで、弟のヴォルフガングが1人で終身総監督として、祝祭劇場を率いてきたのです。しかし、2008年8月に89歳を迎えた高齢のゆえに、誰かに後を譲らねばならないことははっきりしていました。そして、音楽祭の私物性から、その総監督になるのは、一族の誰かです。
 ヴォルフガングの意中の人は、彼の二番目の妻との間に生まれた娘で演出家としても活動し始めたカタリーナ・ワーグナーであると言われています。彼女は、彼がちょうど60歳の時に生まれた計算になりますから、文字通り、孫のような娘で、これが可愛いのは無理もありません。ちなみに、カタリーナの母、グドルンは、イーファと同い年です。
 カタリーナを総監督の後継者にすることに対しては、当然イーファが黙って引っ込んでいる訳はありません。さらに、ヴォルフガングの亡兄ヴィーラントの娘で、イーファと同い年のニケも総監督に立候補を表明したものですから、ワグナーの楽劇さながら、3人の女の戦いが始まり、ここ数年間にわたって展開されてきたのです。
 このため、ヴォルフガングは高齢にもかかわらず、総監督を辞めるわけにはいかず、ずっと務め続けてきた訳です。しかし、カタリーナの母グドルンが急逝したことで事態が急変しました。というのは、近年、実際にバイロイト音楽祭を仕切っていたのは、高齢のヴォルフガングではなく、実はグドルンだったからです。グドルンが死んだ以上、もはや、ヴォルフガングが形式的に総監督の地位に留まるのは不可能で、3人の女の誰かに決めなければなりません。
 ここまでの知識があれば、皆さんも私を面食らわせた新聞記事を理解することができます。簡単に言ってしまえば、彼は、兄の娘を退け、自分の娘に関しては、足して2で割った妥協を行ったのです。すなわち、イーファとカタリーナの二人に、共同で総監督に当たらせることになった、というのが、本稿の見出しの意味です。
 ヴォルフガングが、渋々そう決定したのが8月の28日だろうと新聞では推定しています。その日、彼は愛するものを集めて、記念写真を撮ったそうです。その写真の構図は、老いたる総監督はライオンの足のついた玉座に座り、その脇には妹のフェレーナが控え、さらにその左右に2人の娘が座り、その背後にはバイエルン州芸術大臣のトーマス・ゴッペルと指揮者のクリスチャン・ティーレマンが控えているというものだったそうです。
 そこで、財団理事会は9月1日にさっそくバイロイトの市役所で会議を開き、22対2の圧倒的多数決で2人の娘が対等の地位を持つ総監督と決まったのです。指揮者のティーレマンは両者に対する助言者になるとか。長引く対立にうんざりしていた理事会が、ヴォルフガングの腹が決まったのを機会に、電光石火に動いたのがよく判ります。
 また、ニケは、この28日の御前会議?には呼ばれず、この決定に対して、不明瞭な手続に失望した、ヴィーラントの家系の権利を今後も主張する、というコメントを発表し、今後も総監督を目指す行動を継続すると表明しているようです。
 こういう訳で、ヴォルフガングの後継者争いは、短期的に、つまり今後5~7年に関しては、一応決着がつきました。母も違えば、年齢も文字通り親子ほど違うこの二人は、これまで交流らしい交流もなかった訳で、今後うまく協調してやっていけるかどうかは未知数です。彼女たちが、優れた芸術的感性を発揮して、音楽祭に新風を吹き込むのか、それとも、船頭多くして、せっかくの音楽祭を破綻させることになるのか。今、世界中のワグナーファンは、息をのんで、次回の音楽祭を注目しています。
 

恐縮であります

 投稿者:H  投稿日:2008年11月18日(火)16時31分14秒
   何度も教えていただき、恐縮であります。数年前、『旧版 憲法ゼミナール』を図書館で
見つけ、何度も読み、今回新しく『憲法ゼミナール演習』が出版されたので、買わせていただきました。

 やっぱり直接著者に質問すると、いろいろ勉強になります。ありがとうございました。
 

芦部説と立法裁量論

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2008年11月18日(火)06時19分23秒
   芦部説と立法裁量論の関係は、はっきりとは言えません。その教科書中に明確に書かれていないからです。教科書中、何カ所か立法裁量に言及していますが、ほとんどの箇所は、判例を紹介しただけで、ご自分の見解という形にはなっていません。唯一比較的明確なのが、第4版326頁で、「権利・自由の性質上の相違により、広い場合と狭い場合に分けて具体的に考えるべきである」とあるので、芦部先生が立法裁量論を肯定していることと、立法裁量論の枠組みとして、戸松説に似た広い立法裁量と狭い立法裁量に分けて論じる、ということまでは判ります(戸松説と正確に同じ定義であるかどうかまではわかりません。)。しかし、さらに進んで、立法裁量論と合理性基準がどういう関係に立つかまで論及している箇所は皆無です。したがって、故人にお伺いすることができない以上、これは判らない、というのが端的な答えです。なぜなら、立法裁量論と審査基準論がどのような関係に立つかということは、それぞれの論者により説が異なるところであり、狭い立法裁量と厳格な合理性基準が対応関係に立つ、というのは、あくまでも戸松説であるに過ぎないからです(複雑な議論になるので、詳しい議論を省きますが、私自身は対応関係はかならずしもない、と考えています。)。
 ところで、これを逆転させることができるか、という質問ですが、これはナンセンスです。立法裁量論は、ある問題が司法審査の対象になるかどうかを問題にします。それに対し、合理性基準は、その問題が司法審査の対象になることを前提にして、裁判所がどういう物差しを適用すべきか、という議論です。したがって、議論がすでに審査基準のどれを適用するべきかというレベルに到達している時には、もはや立法裁量論を論じる余地はないからです。だから「厳格な合理性の基準が妥当であるから、狭い立法裁量によるべきである」ということは、芦部説や戸松説を云々するまでもなく、完全な間違いです。
 

どうもありがとうございました

 投稿者:H  投稿日:2008年11月17日(月)12時40分10秒
   先日、質問させていただいた者です。わざわざ回答していただき、ありがとうございました。
 ところで、立法裁量ですが、先生が68項で挙げておられた、戸松先生の『立法裁量論 憲法訴訟研究Ⅱ』を私も読んでみました。戸松先生は、「審査基準という視点からみるならば・・・狭い裁量論は厳格な合理性の基準に結びつくものとして理解することができる。」
 とおっしゃっています。いっぽう、芦部先生は非嫡出子は憲法14条にいう社会的身分・門地に含まれるとして、「厳格な合理性の基準」を適用すべしとされています。

 そこで、質問なのですが、芦部説に立った場合、戸松先生の定義を逆にして、非嫡出子差別は、「厳格な合理性の基準が妥当であるから、狭い立法裁量によるべきである。」という自説は成り立つのでしょうか?
 

憲法24条と法律婚主義

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2008年11月16日(日)10時52分46秒
  「憲法24条から法律婚重視の見解を引き出しているものもありました。この点はどうでしょうか?」という質問に対する答えは、第56講中に既に書いておきました。しかし、こういう質問が出るということは、そこの記述が判りにくかったということなのでしょうから、以下、簡単に要点を説明します。
 憲法24条1項は「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」すると述べており、決して「両性の合意に加えて市町村役場への届出」がある時に成立するとは述べていません。したがって、憲法24条1項の「合意のみ」から事実婚の尊重は引き出せますが、その逆の法律婚の尊重を引き出すことは不可能です。法律婚は、2項の「婚姻」に関する制度法定権限から、立法裁量権の内容として2次的に導かれるものに過ぎません。だから、様々な個別法制が事実婚を尊重し、内縁の配偶者の権利という制度を定めても、憲法問題は生じません。非嫡出子の相続分の合憲性を判断するに当たっても、法律婚主義の尊重を考える必要はありません。最高裁は、法律婚主義に、明治以来あまりに長く馴染んできたものですから、それを尊重することが、憲法レベルでもいえるという錯覚を起こしていたに過ぎないのです。
 

非嫡出子の相続分差別と憲法24条

 投稿者:甲斐素直  投稿日:2008年11月16日(日)10時51分25秒
  ○ 非嫡出子の相続分については、通常14条で議論しますから、学生諸君としては、余計な議論の仕方を覚えない方が無難なのですが、わざわざ聞かれたので、以下に簡単に説明します。24条からアプローチする、とは簡単に言えば立法裁量論の枠組みの中で論じるということです。
 すなわち、24条2項は「…相続…婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。」と定めています。すなわち、これは制度的保障規定であり、その場合に不可侵な制度の中核は「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」という二つの概念であることが判ります。したがって、この中核に抵触しなければ、国会は相続制度や婚姻制度の制定にあたり、広い立法裁量権を有することになります。その場合には、裁判所は、その裁量権の行使が一見極めて明白に違憲でない限り、裁量権を尊重して合憲として取り扱わねばなりません。他方、中核に抵触している場合には、国会の裁量権はゼロに収束し、裁判所は違憲として扱うべきことになります。
 そこで、問題は、相続に関して非嫡出子を差別することが、二つの中核概念のいずれかに抵触するか、ということに帰着します。中間の論証を飛ばして、結論だけを述べれば、私は児童を嫡出子と非嫡出子に分類し、差別的取り扱いをすることは、児童の人としての尊厳を侵害するものであり、「個人の尊厳」という中核概念に抵触する、と考えています。その結果、立法裁量権を尊重する必要は全くなく、裁判所は民法900条4号を違憲とすべきだという結論を導きます。
 

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